[学習全般]いじめは認識することではない、感じること

いじめは認識することではない、感じること

2015/08/07

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学校内で最も「自分のことをわかってくれている人」は担任の先生だろう、と誰もが思っていることでしょう。実際そうでなければなりません。だから学校には「学級担当制」があるのです。

小学校から高校まで、学級担任が記入した「学籍簿」「生徒生活記録簿」が抄本として順次送られていきます。これによって上級学校に進んだ場合にも過去にどんな過ごし方をしてきたのかをおおよそ把握できるのです。

そのようなことで学級担任の先生は、毎日のホームルームや授業を通して、自分が担任をしている児童生徒の生活に様子や、悩みや、家庭の事情や情動の細部まで観察し、心を配り、気を遣り、把握しているはずなのです。だから生徒や父母からも信頼をされているのです。

こともあろうに、「自分のことを最もよく知ってくれている」「自分のことを最もよくわかってくれている」はずの先生が、最もよくわかってくれていなかったというのはとても残念です。

何回も何回も「いじめを受けている」「助けてほしい」「自殺する日も場所も決めている」と生活ノートに書いてあるのにいったい先生はどのように読んでいたのでしょうか。この記述に対し、「上から目線ですね」「もっと頑張りましょう」など、叱責かたしなめるような、励ますような記述をしています。

自殺を考えている人に「がんばれ」と励ますのは最も注意すべき言葉です。まして、「クラスのみんなが僕の言葉を聴いてくれない」と苦中を訴えているのに「上から目線ですね」とコメントしたのはどのような受け止め方をしたのでしょうか。

校長は「いじめと認識していなかった」「いじめが直接の要因ではない」と応えている。「いじめ」は認識するものなのでしょうか。

いじめと自殺の因果関係を明らかにするには難しさがあるのでしょうが、「いじめはなかった」「いじめと認識していなかった」という言葉は管理者であり教職員の指導者、責任者の言葉とは思えません。自己の評価や職位のことばかりが念頭にあって「報告義務」を怠った責任逃れの言葉と受け取られかねません。

「いじめ」は「認識」するのもではありません。なぜならば「いじめを認識する尺度など存在しない」からです。「いじめ」は「感じ取るもの」です。「いじめられていること」を把握するのは、表情や顔色、発言や態度から「感じ取る」ものではないでしょうか。

あの川崎で亡くなった少年に残る「青い大きなアザ」を見たら、すぐに事情をそれとなく聴くべきだったのではないでしょうか。

学校の授業は「現在の様々な問題や課題を主体的に受け止め」よりよく生きていくための解決策を考え、その課題を思ったり考えたりするばかりではなく、解決する姿勢を養い、解決する資質と能力を身に付けるためのものです。

「いじめと認識していなかった」とは事故の報告を怠った、義務を怠った言い訳にしかすぎません。起こってしまったことは戻りはしませんが、「感じ取る力」を身に付けてほしいと思います。

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