教育[725]

「学校で起こるいじめ」と「対応できない教師」の背景を考察する

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執筆者:中田 雅敏

「いじめのことや、いじめを苦にした青少年の自殺」の報道が起こるたびに、児童生徒を学校に通わせていらっしゃる親や保護者の方は学校、および教師にたいして、学校では何をしているのか、教師の存在とは何なのか、ということに大いに疑問を持たれていることでしょう。

教育基本法や「いじめ、体罰防止対策法」などに「教育基本法の改正は、現代の子供に欠如しがちな、他者を尊重する心のゆとり、いじめについての正しい考え方、健全で前向きな精神を育む意図が第一であり、また思いやりのある豊かな人間性を養うには、学校だけでなく、家庭での教育や地域の助けが必要であるとの考えも記されており、改正前とは異なっています。

日本は教育基本法を改正することにより、皆が協力し合いながら子供を育てられる社会の実現を目指した」と読み取ることもできます。この趣旨を国民全体で理解し、受け止めることがとても大切なことです。

そこで、このような学校の在り方や教師の在り方に疑問を持たれておられる方から、次のようなご質問をいただきました。

「私が知りたかったのは、学校教育で子供たちに大きな影響を与えるであろう教師が、どのような基準で選ばれているのか、ということである。かつて義務教育時代と高校時代、何人かの教師に抱いていた悩み事を相談したことがあったが、明確な指針をいただけず、不信感や嫌悪感が拭えず、彼らが立場を利用して行っていた生徒いじめを思い出す。」

という内容でした。そこで教師の勤務などについて述べてみます。

「教師の勤務先や移動などは、それぞれの各県、各自治体の教育委員会の人事課」で決めます。もちろんこの間一人一人の教師には「勤務評定」があって毎年これを教育委員会に提出しています。

それでは教師とは、どのように任命されるのでしょうか。

まず教師になるには教育に関する「教職課程科目三十から四十単位」を履修します。もちろん学部の科目百二十四単位を履修する必要があります。この学部の履修修得に教職科目の単位も含まれる場合もあります。また大学によっては、この教職科目は学部の修得単位のほかに履修しなければならない場合もあります。

こうして必要な単位を履修した後、その大学のある自治体の教育委員会から「教員免許状」を申請し受領します。教員免許状には「担当教科名」が記されます。教員が不足したり、突然の事故などで不足したからといって「免許状に記された科目教科以外の他の科目」を教えることはできません。

採用に当たっては各県が各科目について募集人員を発表し、教員免許状をもっている人が応募します。そして教員採用試験を受験します。

一回目は「専門科目と教養科目」の両方を受けます。そのほか「体育を含む適性試験」があります。ここで合否となります。合格という人は「第二次試験」を受けます。これは「専門教科、科目」に関する高度な専門試験です。ここでまた合否となります。

合格の人は「第三次、面接試験口頭試問」になります。こうして合格になった人は「一年間教職の心得」などについて「初任者研修」が行われます。

初任者研修で教員の使命、授業の教え方、生活や行動の在り方に関する生徒指導の方法、生徒理解や相談体制や教育カウンセリングなどの研修、など様々なことを「学びなおし」します。

二年目には指導教師のもと授業を行います。その都度指導教師に教えを受けます。ほかにも研修期間中はいろいろあるのですが、おおよそこのようです。部活動や放課後指導、校外学習などについては、教師になってから身に着けてゆきます。

ここで問題なのが、教師希望の学生は専門科目については驚くほどの高度な知識を持っています。専門科目試験の時は素晴らしい成績です。しかし大方このような方は、奉仕活動、家庭での家事、運動、などをしておらず小さいころから塾通いで勉強ばかりをしていて、運動や趣味をほとんど持っていません。

ここに問題があります。

各学校では「放課後活動、部活動」の指導者、監督、責任者の多くがそれまで自分がやったこともない部活動の顧問になります。たとえば、生徒も親も熱心な部活動への希望があったり、優勝などを望む学校の姿勢があって、体罰やいじめ、選手と選手になれない生徒の確執、などが生まれます。

このときに教師としての「本当の力量」が問われます。もちろん科目についても、教師自身は特別優秀でも学級の生徒を集団で教えてゆく「集団授業」では本当の教師としての力量が問われます。

こうして教室でも「いじめや学習意欲の放棄、引きこもりや不登校」などに陥りますが、ここからが教師としての人間性の問題になります。

不登校、校内暴力、引きこもり、いじめ、などに対する対応の仕方や処置については皆目わからなくなります。なぜなら教師自身が勉強ばかりしてきた優秀な人ですから、このような「心の在り方」「学校嫌い、不登校」「いじめ、いじめているもの、いじめられているもの」の気持ちなどがわからないのです。

「回覧ノート、に書いても、直説訴えても、日記に書いても、ほかの生徒に打ち明けても」こうした経験もなく、悩むことなく、成績優秀を通してきた先生には理解できないのです。対応の方法がわからないのです。

そればかりではなく往々にしてこのような先生は「悩んでいる生徒や、不登校の生徒をしかりつけたり、なんだそのくらいでと励ましたり、時には叱ったり、悩んでいるだけでそのうち回復するだろう」などと安易に考えて放置してしまう場合があります。

これで事件になると「知らなかった、認識していなかった,そういうことはなかった、学校では明るい子供だった」という発言になるのです。 いじめを受けていた生徒が、学校では、いじめられないように必死で明るさを装っているのを理解できなかったのです。

他の生徒からすれば「先生は知っていたのに、見て見ぬふりをしていた」と映るわけです。ですから「学校や先生に手落ちはなかった、子供に耐性がなかった、我慢がなかった、いじめとは思っていなかった」というコメントになってしまうのです。

そうしたコメントにたいして「隠蔽体質、とか学校は対面ばかりを考えていた」という非難もありますが、教師の資質の中に欠けている部分があるとすれば「どの子供も同じように扱い、どの子供も違うので、個々の生徒に合った接し方をする」というそれぞれに異なった対応の方法「集団指導と個別指導の方法」を教師は身に着けるべきだということになります。

教師は「教員免許状の自分の教科科目」だけを教えていればよいのではなく、「教師としての役目や仕事は全校そのものの諸活動、学校全体の生徒、学級の生徒、個々の生徒」との対応が異なり、その技法や指導法があることを自覚して身に着けることが必要なことです。

また教師を志す人はボランティア活動、社会奉仕活動、運動競技、などに積極的に取り組み、子供たちの気持ちになって理解し、寄り添える人間としての資質も備えておくべきですね。そうした資質が教師には求められているのです。

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