いじめ問題が複雑かつ深刻であることが公事になったのが大津市の「いじめによる自殺」が報じられた時点であった。
学校では、
「知らなかった」
教育委員会では、
「いじめはなかった」
自殺した少年の親からは、
「ノートや日記にいじめに遭っていたことが書かれていた」
市長は、
「これから調査します」
という四者の認識の違いが明るみに出た。 まるで芥川龍之介の小説「藪の中」のような状況であった。 しかし、未来ある少年が自ら命を断ったことは事実であり、「そこにいじめがあったのか」という問いに関係者の言い分がそれぞれ違っていたのだった。
これを事件として扱い、警察の捜査が入ったことも異例であった。
それは過去にも「いじめられた果てに自殺」とした青少年が何人もあり、何件もあったが、これほどそれぞれの言い分の違いがあった事件は稀であったからである。
当然この甚だしき認識の違いは事件性が関与しているという認識となり、警察捜査として解明するべき問題であった。そして、その結果は「いじめによる自殺」となった。
政府も文科省もこれを重要視し「いじめ防止対策推進法」と、同時に問題視されていた教師による体罰を苦にした自殺防止のための「体罰防止対策推進法」を法制定した。
この法の実効性を高めるために文科省では「道徳教育」を通して人格の完成と思いやりの心、自制心の育成を図るべく「特別の教科・道徳」とし、平成三十年から(中学校は平成三十一年から)小中学校で教科として教えることを定めた。
この科目の学習指導要領では個性の伸長や善悪の判断、自律心の育成や自由と責任、相互理解と寛容、公正で公平な社会、国際理解や家族愛、などの項目に分けて教え、
「日々の生活が家族や過去からの多くの支え合いや助け合いで成り立っていることに感謝し、それに応えること」
「思いやりの心をもって人と接するとともに、家族などの支えや多くの人々の善意により日々の生活や現在の自分があることに感謝し、進んでそれに応え、人間愛の精神を深めること」
「父母、祖父母を敬愛し、家族の一員としての自覚をもって充実した家族生活を築くこと」
「父母、祖父母を敬愛し家族みんなで協力し合って楽しい家庭をつくること」
などが小学校、中学校の教育内容として提示されている。
このような項目は指導事項というよりも家庭、家族の価値については家庭家族がそのように在らなければならず、こうした徳目を学校で教えても、社会全体が、それぞれ帰属している社会、企業、働く場所でも「そう在らねば」学校教育で教えても、それは「教え」であり、「授業」であり、実践とは結びつかない。
なぜならば、社会や働く場では「表の論理」と「裏の論理」があり、大人社会、一般社会ではこれを上手に使い分けて生きているからである。このような質問があった場合に教師はどう答えるのだろうか。
仮にこれらのことを学校教育で修得しても、これらのことを体や心で身に付けて実践できる人間にならなければ「いじめ」はなくならない。人間には知恵があり、狡猾で、逞しく、独占欲がある。世の中すべてが聖人君子で良寛さんのような人ばかりならば道徳を学校で教える必要はない。
ましてこのような「純粋無垢な人間」がいじめの対象になったり、心優しく思いやりの心ばかりの人が詐欺に遭ったりする。この世は純心で純真なだけでは生きてゆけない。
では、この世から「いじめ」をなくすにはどうすればよいのか。
それは「利己心」を捨て、「利他心」を人間全体が持つことであり「自己滅却」することである。それは何よりも親が実際の姿を通して示すべきであり、そういう家庭を形成することにある。
また教師の人間観や生き方は直接子どもに影響を与える。
教師自身が「何をするか」ではなく、「どのようであるか」ということが直接子どもに伝わる。実際「これとこれをこのように教える」ということではない。教師は一瞬の一つの言葉が全人生として子どもに映る、怖い職業である。
教師の一瞬の言葉、一瞬のしぐさ、一瞬の行動が子ども達の脳裏に一生残るものである。人間は完璧になれるはずがない。裏表は子どもには見透かされる。二枚舌も使えばすぐに見破られる。騙そうとしても見抜かれる。
なぜなら子ども達はそれほど「純粋」だからである。
そのように純粋な子ども達がなぜ同じクラスの友を、なぜ同じ町の子を、なぜ皆で寄ってたかって「いじめ」て「死に至らしめる」のであろう。
実は「純粋」ほど恐ろしいのである。純粋な人は「自分を疑うことを知らない」。自分は誠実であり、皆と同じ行動をしている。仲間として同僚として切磋琢磨している、と思い込んでいるからである。
その方向がどちらを向いているかを考えもせず一途に自分の使命を果たそうとする。それが戦火の中に置かれていても、皆がやっているから自分も精一杯やっている、と純粋に思い込んでしまうのである。
自分で自分の言説や行動を疑ってみることの必要性がそこにはある。
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