[しつけ全般]なぜ「いじめ」はなくならないのか【学校で教えていること】

なぜ「いじめ」はなくならないのか【学校で教えていること】

2015/05/12

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学校教育に求められている課題を取り急ぎ二つ考えてみましょう。 二つ考えるということは、相対する項目をあげる方法と、相共通する項目をあげること、これも二つ考えられます。

最初の一つは「学校集団、学級集団」など、集団の中の一員として教育を受け、集団としての答えを出し、一致する答えを見出し、教師は一つの答えに生徒を導くことで学習効果が得られた、とする集団教育があります。

これに相対する方法に「個人、個人教育」があり、こちらはそれぞれの個人を尊重し、個人の考えを大事にし、しっかりとした自分の生き方、考え方を確立した人間に育てることを教育の目標とします。

学校での教育は、この「集団教育」と「個別教育」の二つを、時に応じ、場に応じ、それぞれ同時に取り入れたり、それぞれを別々に取り入れて教育が行われています。

まず、入学すると入学式があります。これは集団教育の始まりです。次に学級集団に分けられます。ここでは本来見知らぬ間柄でしかない人々を集めては適当に、あるいは意図的にクラス単位に振り分けて、朝の登校時から夕方の下校時まで、一つの空間の中で生活を共にします。

次に学年集会や学年会、遠足など学校行事として一緒に行動します。そして運動会や校内行事として学校全体の集団行事があります。これらの集団教育活動は、極めて日本的であり、明治五年の学校制度の開設から極めて重要、有意義な教育として、戦後「個人の尊重、個人の尊厳、個人主義」などの考えが取り入れられるようになっても、集団教育は重要であるとの考えで今日まで連綿と引き継がれています。

教室や学校に集められたメンバーは、そこに集められたというだけの赤の他人とも言えます。しかし、ここでは「あたかも家族であるかのように仲良くしていること」が原則です。 そして無理強いされるように教師から求められます。

つまり集団を構成する一員として、何事も同じように、一斉に速やかに行うことが求められます。

好きでもない相手とは精神的な距離を置き、差し障りのない範囲で付き合う、というのは、大人社会、一般社会で行なわれている当たり前の事です。しかし、学校という場所では決して許されません。そのような閉鎖的空間で、一日中不自然にも仲良しでいることを強要されます。

もっとも、こういう中で辛抱し、自己を滅却し、自分の考えを捨てて多勢の方向に同調することを身に付けるのが集団教育の目標であるならば、群れから外れる行動や考えは否定されるのは当たり前でしょう。

ここを上手に表面的でせよ、仲の良い集団をつくり「団結力」を誇るのが教師の力量と考えている教育関係者が多勢います。

このような閉鎖空間で不自然にも仲良しでいることを強要され、自分の考えを押し殺して、みんなが目指す方向に従ってゆけば、生徒たちの心理には当然「ムカつき」や「苛立ち」が生まれるでしょう。その苛立ちや不満を特定の生徒に向けてゆくのが「集団いじめ」となるわけです。

そのような場所では、もはや独立した個人として他人との関係性や精神的な距離を測る力も次第に衰えてゆきます。個人を捨てれば集団の一員として認めてもらえる、という思いから、多勢に同調し、いじめる側にまわる場合もあります。いじめが発生している教室や、学校では、それぞれの子どもが本当は誰が好きなのか、嫌いなのかがわからなくなり、その集団や学級のその場の様子や空気に判断を委ねるようになってしまいます。

いじめは学校だけでなくどこでも起こるものですが、学校で頻繁に、かつ極端ないじめが起こりやすいのは、「みんな仲良く」が大人の社会では使い分けられるのに、子ども社会は純粋性が求められ、本当の仲良しが求められるからです。