家庭の中で子どもに向かって「万引きをしても良い」「反抗しても良い」「暴力をふるっても良い」「いじめをしても良い」と教える親はいないと思います。
それではこれらのことをどのように子どもに言い聞かせているのでしょう。
「他人のものを取ってはいけない」「ひとの意見は素直に聴きなさい」「暴力はいけない、じっと我慢をしろ」「いじめに加わるな」「いじめを見たら止めに入れ、先生に知らせよ、場合によっては親に話したり、警察に通報しなさい」と教えることでしょう。
これは大人の論理であり、社会通念として当然なことであると誰もが思っていることでしょう。
しかし、当然と思っている大人の論理の中には「見て見ぬふりをしろ」「そういうことを見たら関わるな」「その場から逃げろ」「決して他言するな」「自分の胸におさめておきなさい」という、大人の論理である「表の論理」と「裏の論理」を「その場に応じて使い分けなさいという極めて狡猾な考えが潜んでいます。
こういう行動は大人になるにしたがって身に付けてゆく、良く言えば「上手に立ち回る、上手くかわす」ということになり、悪く言えば「ずるく、顔色を見て態度を変える」ということになります。
学校ではあくまでも、理想を掲げ、自分の意思を持ち、高邁な思想を持ち、社会や世界の人々に貢献できる人物になれ、と教えます。弱者を助け、奉仕の精神を持ち、独立自尊、人類の恒久の平和に貢献せよ、と教えるのです。
学校では決して狡猾に生きるためには、上手に立ち回るには、軋轢を生まないためには、ということなどは教えてくれません。
いじめで自殺をした青年たちの多くは、こうした二重生活、二重思考ができない生徒たちでした。事件後の報道やその後のルポルタージュ本などを見たり聞いたりしてみると、自殺した子どもは誰もがそんなにうまく立ち回ってはいなかったようです。
十三歳の少年がリンチに遭い、マットに逆さに詰め込まれた後に死亡をした事件がありました。
この少年は日常的にリンチに遭っていたそうです。「地方弁を使えない」、「学級の皆と異なった善悪の基準を持っていた」ようで、皆から強要されたことを確固とした意思で拒み、それが殺害されたきっかけだったそうです。「文化の違いだった」そんな言葉で割り切れるようなことでは決してありません。
少年の父親は「正しいことはどこまでも貫け」と教えていたそうです。また、少年の家族は、都会から移り住み、裕福で睦まじく、都会的モダンな家族であったので、地方の土地柄と異なっていたことから、親の間でも齟齬があったとも言われています。
近頃「空気を読め」や「被らないようにしろ」、「へこんでいろ」などと様々な人間関係の中で言われている言葉があるが、これは「その場の雰囲気や、その場の状況の流れを捉えて、上手に振舞え」という意味だそうです。
私たちは職場や近隣、学校などあらゆる生活の場面で、その場その場の雰囲気に合わせ、自己を滅却しなければならず、そうではない者は有形無形の不利益や扱いを受けています。
皆の心が一つになること、それを事細かに形で表し、全体が一つになることを求められている。「和の秩序」といえば望ましい態度となるが、独立した自己を生きると弾き出されるような不気味さや不安を感じます。
昔から和の文化とは「互いの違いを認め、議論を尽くし、一致するところを見出し、自ら積極的に取り組む」態度であろうと思います。
ただ一つのことを誰かが決定し、執拗に一つの形を押し付ける「押しつけがましさ」を神聖視する考え方もあります。こうした場所では、その押し付けを拒否すると陰湿ないじめに遭う。それでも自分の考えを曲げず、自分の意思を通そうとすると身を滅ぼすことになるとも考えられます。
それでも「上手に立ち回れ」と我が子に教えられるでしょうか。集団と個人を使い分けることぐらいは家庭でも教えて良いでしょう。郷に入れば「業」に従えとでも教えるべきなのでしょうか。
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