教育[725]

我が子をいじめっ子にしないために

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執筆者:中田 雅敏

平成28年になり、そこで平成27年を振り返ってみて気づいたことが2つあります。

そのひとつは深刻な「いじめ」あるいは「いじめが原因と思われる少年少女の自殺」のことである。毎日目を通す新聞にはほとんど毎日のように「いじめを苦にした自殺」と思われる記事を目にします。

しかし、この1年の間、テレビニュースやマスコミ関係では報道されていません。

NHKの番組では毎日「振り込め詐欺」「オレオレ詐欺」に関するニュースと、その手口、詐欺に引っかからない事を報道しています。

特に高齢の方に向けた呼びかけで、毎日特別な時間を設け、特別な解説付きで報じています。これは事件を未然に防ごうとする熱意と見られます。

ところで、「いじめ防止」「いじめによる自殺」の報道はどうなってしまったのであろうか。まったく報じなくなってしまったように感じます。

しかし決してなくなったわけではなく、平成26年と同程度の「いじめ、虐待、子どもの虐待死」という痛ましい事件が起こっているのは事実です。

文科省が調査をし、防止対策法が制定されたことで、これで事足りたと思っているのでしょうか。

どうもこうした報道自体が「喉元過ぎれば」という意識を持っているような気がします。無論、マスコミや報道は「今起こった重大な事、特別な驚きを抱かせる事態」を追うことを使命としているのはやむを得ません。

しかし、大々的に報道し、人々に関心を持たせることが、視聴率を上げると考えられていては、本来の趣意とは異なるのではないでしょうか。

特別番組を組んだり、クローズアップしたからといって本質的な課題解決にはなりません。「いじめ問題」は様々な方面から研究され、構造が明らかになり、対策法も提案されています。それらを息長く報道し、多くの人へ呼びかけ、注意を喚起してほしいと心から願います。

何故このように申しているかと言うと、ほとんど毎日多くの電車で「人身事故による電車遅延」が発生している。そんな中、「またか」と思う人もおられるかと思いますが、多くの人は当然のことのように思い、運転再開まで黙って待っている。

こうした心理は「大切なかけがえのない命がまた失われたのだ、なんと悲しむべき」という思いが消えてしまっており、さらに進むと「線路上に物が落ち、撤去まで黙って待つしかない」と思ってしまうのではないでしょうか。

「いじめを苦にした自殺」にしても、毎日新聞記事に書かれていますが、それもほんの小さく地方版にのみ、となってしまっています。

読んでも「またか」と思い、大切な未来ある有為な青少年の命が、痛ましくもまた失われてしまった、と嘆く気持ちも、その子に寄せる思いもなくなってしまいます。

人間は何度もあると慣れてしまいます。慣れは「頭で考える」ことをしなくなること。「いじめの防止」は「我が子理解」や「しつけ」「家庭教育」のことを愛情で捉え、「頭で愛する」情動行為が必要なのです。

それ故に「またか」や「学校で教えるべきことだ」と考えてはならないのです。

親である私たちが「我が子に対して心で愛する」以上に「頭で愛する」ことが最も大切なのです。「心で愛する」ことは人間以外の動物にも見られます。「ホットな愛情表現」のみならず、「クールな愛情表現」も必要なのです。しかも長期にわたって堅持できる愛が必要なのです。

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