[家庭のこと]世代間の言葉遣いの違い

世代間の言葉遣いの違い

2015/07/04

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美しい言葉が常に人の心を弾ませるかといえばそうとは限らない。

「明日がある」
「未来に向かって」

なども美しい言葉である。 未来を志向するという言葉は、「先に進む」や、「前進する」という意識をもって使われる。 しかし、「また明日」や、「明日になったらわかる」などという言葉には、そんなに深い意味や「前進する」という強い決意は感じられない。

近年よく言われる言葉として「若者の言葉の乱れ」「ぞんざいな若者言葉」「滅びゆく日本語」などがある。

おそらく若い人たちは、確固とした意味を持たせることなく、言葉から発せられる形容や様態からイメージを把握し、受け取る側もイメージを湧かせて会話をしているのではないだろうか。

例えば「へこんでいる」「かぶっている」「かんでいる」「よたっている」は、落胆重なる、閊える、ふざけているなど、その時のその人の状態で表現した言葉である。

こうした言葉を若者はたくさん作り出してくれるが、世代間で理解できても異世代との間では理解が難しい。

一方明治の歌人石川啄木は「新しき明日の来るを信ずといふ自分の言葉に嘘はなけれど」とうたって絶えず新しい、美しい明日が来ることを思い描いていた。

「たとえむなしくとも」「たとえ裏切られても」ひたすら美しい未来に期待を寄せていた。

「なんとなく明日は良きことがあるごとく思ふ心を叱りて眠る」というように幾度となく「明日」という言葉を使っている。そして落胆しては「ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」とうたっている。

寺山修司はその中に秘められた悲しさを「タバコくさき国語教師が言うときに明日という語は最もかなし」とうたっている。

現代の若い世代は直接自分の感情を言葉に表現しようとしない。なにかをすれば言葉にはその人の意志が込められる。それを避けているのだ。 つまり自分が何を考え、何をしようとしているのかを知られたくないのである。

文芸用語を使えば「朧化」というのだろうが、その心の内は「自分を明確にしない」「立場を鮮明にしたくない」のである。それ故に実際「きれる」や「動機不明」などといわれる大事件が起こるのであろう。

世代間の言葉の使い方には「敬語」がある。

対人関係上から生まれた言葉であるが、現在この敬語の使い方はまことに間違いだらけである。 尊敬語、謙譲語、丁寧語があるが、高齢者の方はいまだに厳格に考えておられる方もいる。

つまり、文語文章、あるいは身分や立場、長幼の序を重んじた時代に育った方である。 文語文は古典籍が敬語を使っている。当然この敬語を使うことで作中の人物の位置関係や従属関係があらわになるため、主語を省略した文章でも人間関係が判然と識別できるのである。

戦後の民主主義は「すべてが平等、組織は命令で成り立つ」ここを離れれば対等という社会を作り上げた。

それ故に言葉は意味を曖昧にし、自己の立場や意見をはっきりとさせず、社会的にも敬労の心や子どもへのいたわりの心を表現する言葉を抹消しようとしてきた。

つまり言葉には霊性があり、言霊があるとそれに自分自身が呪縛されることを恐れている。 結局自分の言葉に責任が伴うことを畏れているのである。 それ故に「発語明瞭 意味不明瞭」という状況にあるのが日本語なのである。

それでは「美しい国」とはどういう国を指すのであろう。「明日や未来」は明るいのか。日本の超高齢化の中で起きている問題を解決するには身近な世代間の中での「言葉遣いの在り方」をきちんとすることが必要である。